この原稿を書いている私は、他人である。ウチマヤスヒコの幼馴染みでもなく、大学の同窓生でもなければ、はたまた、隣のおばさんでもない。言うなれば、たまたま乗り合わせたバスの中で、たまたま隣の吊り革を握っていた、という感じなのである。だから、ウチマヤスヒコって、誰?という感覚が正直なところなのである。
よく人を例える時に、クラスにこんな子、ひとりやふたり居たよね、というノリがあって、ウチマヤスヒコはって言うと、まず、学級委員長や生徒会長のイメージじゃないのかな。本当にそうだったりするかもしれないけど。本人からちゃんと聞いたことはないけれど、宅建主任だ、なんだという国家認定資格みたいなものをいっぱい持っているらしいし。それがどうしたの?それが人生になにか意味があるの?っていうことも本人に聞いたことはないけれど、そんなところがウチマヤスヒコなんだろうか。だから、不良で、悪いやつらともつき合っているけれども、おとなしいいじめられっ子とも仲良く遊ぶ。友達がいっぱいいる人気者の雰囲気。そんな人柄なんだと思う。 名前は覚えていないが、昔の偉い哲学者が人間の欲の法則みたいなのを考えてこう言っていた。確か、人間は食欲や性欲という原始的な欲望が満たされると、最後に、名誉なるものを手に入れたがるというウンチク。突然話が人生論という、かつてない壮大なスケールになってしまったが、ウチマヤスヒコの生活の糧は広告屋。名刺にある肩書きは、広告会社のクリエイティブ・ディレクター。本人がやりたくてなったのか、しかたなくなったのかはわからないけれども、他人の立場で見る限り、なんとなく、というか、けっこう楽しんでいる感じ。広告というのは商いだけど、絵画や音楽のように作品そのものを買っていただくわけではない。モノやサービスをつくって売りたいという人と買いたいという人が居て、初めて成立するビジネス。にわとりとたまごのように、どちらが先かはいざ知らず、売られる人に買ってもいいかもって思わせるのが広告屋さんの腕の見せ所。だから、人の気持ちがわからないとできないだろうし、くどき上手のジゴロじゃないといけないはずだ。本人がジゴロかどうかは、周りの女性の方々に聞いてみないと分からないけれども、根本的には平和主義者なのかな。意味がよくわからなくなってきたけど。 商いの教えに、二人の靴屋さんの営業マンの話がある。靴屋に勤める二人の営業マンが新規開拓のため、アフリカの視察を命じられて、二人は同じように見てきたが、見解は全く正反対。一人は「靴をはいている人がいません。みんな裸足だから靴は売れません。」そしてもう一人は「靴をはいている人がいません。みんな裸足だから靴は売れます。」と。ウチマヤスヒコはどっちだろう?って考えると、どっちも違うのかな。たぶん「靴をはいている人がいません。みんな裸足だから、ぼくも裸足になって一緒に遊んでいます。」って、勝手に思いついちゃった。 ウチマヤスヒコって言えば、やはり廃品である。本人曰く、廃品との出会いは、ニ十年程前に、八王子のとある道端に捨てられていた、精工舎の骨董時計だったようだ。ちょっと、小洒落て、と言うか大袈裟に言えば、それが人生のターニングポイントだったのかもしれないな。 03年の10月に開催された「廃品回生業者の想庫(モノオキ)」展の寄稿文には、廃品について次のように書かれている。 「雨に降られたり、風に吹かれたり、日に照らされたり、自然と共に生まれ変わり続ける廃品たち。その廃品たちに少しでも近づきたくて、私はいつもそこにいます。」と。 前段で、偉い哲学者のウンチクに触れて、だからどうしたの?って感じだけど、ウチマヤスヒコを見ていると、人生って、お金より、名誉より、やりたいことを、やりたいように、どこまでやれるかって感じなのかなって思ってしまう。制作にしても仕事にしても。純粋に。奔放に。
なんとなく、ウチマヤスヒコ。なにそれ!?って照れ笑いする、本人の顔が目に浮かんできた。 |