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風澤 勇介 / 留学先:チェコ アカデミー オブ アーツ アーキテクチャー アンド デザイン
2004年度第8回校友会留学奨学生レポート
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 今回、私を2004年度 第8回 留学奨学生として選んでくださった校友会の方々、及びこの制度に、深い感謝の意を、この場をお借りして簡単ですが述べさせていただきたく思います。この制度は私に、可能性に満ち溢れ、開かれた世界を知る上でのかけがえのないきっかけとなりました。そして今、この制度の将来性を実感しながら、このような機会を与えていただける東京造形大学を卒業したことに改めて喜びを感じています。ありがとうございました。
※尚、今回の私のレポートは少々主観的な内容であるとは存じますが、或るひとつの世界の姿としてご一読していただければ幸いです。

    ◆プラハという町について     >>>
    ◆チェコという国と芸術      >>>
    ◆そして現在 私を取り巻く環境  >>>

 

◇ ◇ ◇

◆プラハという町について
 「黄金の都」「北のローマ」「ヨーロッパの音楽学院」「百塔の街」「建築博物館の街」。すべて現在私が住んでいるプラハを指す、かつてこの町を訪れた人々による賞賛の言葉である。プラハは現在チェコ共和国の首都であり、神聖ローマ帝国の頃に大黄金期を迎えた首都でもあった。そしてその栄華の産物は文化として気風として建造物として今も町のいたるところに見受けられ、町自体が世界遺産に登録されているという極めて稀な名誉を持つ。そしてプラハは、ヨーロッパ大陸のほぼ中心に位置しており、決して経済的に豊かではないこの国の物価も助長して、東西南北あらゆる国から押し寄せる観光客は後を絶たない。国益の9割が観光収入によって賄われているという過剰な定説もあながち否定は出来ないほどに、溢れかえる観光客を避けて歩くのには困難な日常がある。改めて考えるとここはかなり異様に思えてくる。ゴシック、バロック、ルネサンス、アール・ヌーヴォー、キュビズムなどの様々な様式に景観は重々しくも彩られ、現代建築が肩身を狭そうに佇んでいる。高台から見下ろした町の中心には、荘厳且つ優雅に流れるヴルタヴァ(モルダウ)川の水面が、建築物の装飾たちと日差しの反射を競い合っている。そして細い路地が複雑に絡み合い、夜になると浮かび上がる黄色く淡い電飾までもが観光客の再訪を促す演出になるという。 この様に煌びやかで美しい町の姿は、現在までにおよそ1200年をかけて多くの芸術家たちが残した結晶に縁る。彼らは王や皇帝、大統領というその時代ごとの君主によって召集される場合と、自らこの町に魅了されて作品を残していった場合とがあるが、その息吹が芸術を志すものにとって、まったくの刺激にならないと言ったらそれは嘘になるだろう。しかし同時に、この国は第二次対戦中に他国に侵略されていた為、数多く残された戦争の傷跡も、見る人の感受性を刺すある種の棘となる。    
種類の違う数々の手が残していった時代の痕跡、そして息づく文化は連綿たる歴史の実存を体感させるには十分である。私が観光で初めてここを訪れた時の上記に代表される印象と、住みながら知っていく事実には相当の落差がある。それは「強い光が差している分、かたや強く濃い影が出来ている」という表裏一体の通説に当てはまる。しかし特筆すべきは、この街の歴史的栄華からの衰退、そして現在の繁栄を保持しつつゆっくり向上させようとしている部分にある。つまり頂点から底辺へ落ち込んだ経験を持ち、その道程の景色の記憶と共に歩んでいると言える。だから私は、ここプラハにおいては少々言葉遊び的だが、「濃い影の分だけ強い光が差している」と換言する。  <<< TOPへ

◆チェコという国と芸術
 チェコの芸術と一重に言った場合、それは音楽を指すだろう。日本人なら義務教育課程の音楽の授業の中で学んだ数々の名曲と作曲家がこの国から生まれ、かのモーツァルトもここを愛し作曲活動を行っていたのだから、我らの美術が二番手でも仕方がない。しかし上記のような建造物や装飾に顕著なように、絵画、デザイン、彫刻、そして私の専攻している映像芸術も古くから盛んである。先に述べたようにチェコは土地柄もあり、陸続きのヨーロッパ他国の芸術を受け入れるのに利便性を持っていた。そして真冬には−20℃にも及ぶ気候の中に住むボヘミア民族、モラビア民族、ユダヤ系民族からなるチェコ人たちは、暗くて寒い室内で、無から有を生む錬金術の熱気の如く、独自の方法で、「国外から入ってきた芸術」を一旦溶解し、再びそれに火を加えて練り上げる術と、苛酷な環境を生き抜く強さを持っていた。ここで生まれる新たな趣向の芸術と、それまでの多くの作者による芸術作品群の時代を暦階する競演が、世界でも類を見ない希少な町を形作っていた。しかし時は進み、その発展は戦争という魔物に食い尽くされる事態に直面する。もともと手先の器用な彼らは他国の銃器製造も担っており、武器も手に取れる状況にあったが、偉大な芸術家たちの残した多くの遺産や、街の姿に結晶した自分たち自身の誇りを守るために、戦車がプラハの中心部を横行しても敢えて反撃しなかった。それは、暴力による反撃は、更なる反撃を生む虚耗の愚挙であると知っていたからである。その上で彼らは、肉体的拘束もさることながら、国の伝統芸能である人形劇の中のみでしか、チェコ語の使用を許されないという「民族的拘束」まで強いられた。意志が強く活動的で卒引力のある、現在では重宝されるような人材は、政府から目をつけられ、地下に潜ることを余儀なくされた。しかし、それらの人間としてのアイデンティティの剥奪に屈さずに、国民性の全てを剥ぎ取られた、圧政の拘束具だけを身に付けさせられた云わば「屈辱的裸形」を晒すにことなっても、自分たちの不平や願いを、浸透性と伝導性を併せ持った「錬金された芸術」と呼べるあらゆる表現手段を用いて、多くの作品媒体に自己の精神を憑依させ、国内外の同じ境遇の生きながらに殺されている同胞を活かそうとした。しかし、そこには厳しい政府の検閲という、「人間味のない目」が入る。だから検閲官に一見気付かれないように、でも見る人が見れば、もしくは深く感じればわかるように、作品の中に政治批判、又は、人間の醜悪を仄めかす「皮肉」という武器を忍び込ませていた。 そして民主化された現在も、その物事の底辺からの表現方法は残っており、それらは五感に触れる、静かに重く深淵な水流として、世界に類のない独得の芸術であり続けている。  <<< TOPへ

◆そして現在 私を取り巻く環境         *画像をクリックすると詳細ウインドが開きます。 
 今ここで私が「アニメーション」(商業主義のもののそれではなく日本ではアート・アニメーションと呼ばれているもの)を学ぶ理由は今まで述べたチェコの特徴が凝縮されているものが何よりもアニメーションであり、またそのアニメーションはここでしか学べないものだからである。自国の公用語であるチェコ語の使用を唯一許されていた人形劇は、それまで別路線で発展していた映像芸術と融合した。そして誕生したパペット・アニメーション(人形を一コマずつ動かして撮影するもの)は現在、広く世界で目にすることの出来る芸術となった。そしてこの分野の父であるチェコには多くの作家が経済難と戦いつつも己の主張や感覚を、丁寧に刻み込みながら高みを目指し続けている。私の通うAcademy of Arts, Architecture and Design in Pragueという学校は、23(2005年現在)の専攻分類を持つ5つの学科から成り、本科生は1学年各専攻毎年3人ほどしか入学できないという(私は幸運にもここの教授の直接許可により個人留学生として在籍できている)基本は5年生の名門の国立美術大学。在籍する留学生はヨーロッパ近隣諸国からだけでなく、ある程度の経済の安定した国であれば、世界中どこの国からも集まってきていると言っても過言ではないだろう。私の在籍する専攻は、“TV&Graphic” という映像芸術を探求するものであって通称“Film”と呼ばれていて、他の生徒もほぼ全員アニメーションを制作しており、卒業後はテレビ局、映像製作会社、映画監督、作家など実に様々な形でアニメーションないしは映像芸術に携わる仕事をしている。そして大きくここの生徒が日本の学生たちと違うと感じるのは、学生でありながら定職を持っていることや、在学中及び卒業後の「国内外問わず」の活動が、当たり前に視野に入っていることである。これは向上心や純粋な自己顕示欲だけでなく、芸術に携わることの流動的な不安定さを厳格に捉えているからである。芸術のもつ開放的な幻想や神秘を抽象的に期待する甘さも、慇懃無礼もない。単なる自己欲求を押し出すものでなく、作品を見せる対象をはっきりと知っているかのように見える彼らには、迎合するのではなく、何が世界にこの先必要であるか見極める目と、世界に自身の作品を求められるように売り込む峻厳な姿勢がある。その審美眼は芸術が人間に及ぼす「生きる力」を持っていることを歴史的にも体験していることに起因するだろう。そして私の属する専攻の学生ならば、伝統ある国営アニメーションスタジオ(クラートキーフィルムという)を利用できるなど与えられる条件も、プロの自覚を既に持つ彼らに対してそれ相応であるといえる。つまり多くの若い才能を受け入れるだけの土壌がある。そしてその芽を伸ばす環境もある。このように専門的に芸術としてのアニメーションや他のジャンルの美術を学ぶ機関は日本よりも必然的であって、その本質は世間との密着性も高い。これらはアニメーションに限定されるものではなくて、私には芸術とは本来、生まれるべくして生まれるものだと再認識させられる。無理に搾り出したり独りよがりを押し付けるのではなくて、どうにかして隠し通したいのに、もう押さえ込めずに抑圧が効かなくなって弾けてしまい、どうしようもなく破れ目から溢れ出してくる「原始的衝動の権化」であると思い出させる。そしてそれはとても素直なものであるから、着飾った見栄も小手先も共通の言語も必要とされていないし、人間として共感しあえる、敬服すべきひとつの「需要の化身」に為り得ていることも見逃せない。それらは単なる娯楽や個人的快楽としてではなく、刃を拾う手であり、もしくは思想とも言える、「人間の精神をもう一歩豊かにするための手」が、日常的に差し伸べられている。そしてなにより「握り返す手」がある。

ヨーロッパの美術環境を買い被りすぎていると言われればそれまでであるが、残念ながら私には、職業としての「アーティスト」という肩書きが極端に持ち難く、倦むことさえ眩しく映る程、美意識を枯渇させてしまったかのような現代日本では、ここまでこの「手と手の呼応」を強く世間に感じ得たことは未だ一度もない。しかし、私には身を以って自身の作品を社会に必要とされたことも人を生かした実績がないことも事実であり、持論にも至らず感想程度に留まる自分自身の矮小さを改めて省みる。しかし同時に救われもする。その自己矛盾のどこまでも纏わり付くような、私の呼吸を不自由に遮る粘膜を毟り取ってくれる「指先」は、その温度を分け与えてくれる「手のひら」と同様に、様々な国の友人たちの枝葉であることに気付く。彼らとの関係の中で分かち合うものは、背負う背景の差異こそあっても、同じ土壌深くに根を張る共通意識や、貴重な時間の共有はなかなか得難く、芸術に於ける「可能性」という不透明な大気に枝を伸ばす私の根幹を豊潤にする。   
2005年5月、やっと春を謳歌し始めたそよ風も色づくプラハの町で、私にこの僥倖の花を咲かせてくれている多くの人々に私は只、感謝する。

 

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