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震災から3ヶ月が経った頃・・母校から原稿依頼があり、自分が美大の受験目指して活動できた光景と、今何もかもゼロにされた目の前の生徒の姿が53才にはこたえます。云いたいこと、云いたくないことなど整理できず心がグチャグチャで散文になったしまいましたが今書ける文章です。
高橋成徳
学年も無く、クラスも無い、宮城にこれまでなかった自分で時間割を組むことのできる完全な単位制高校「東松島高校」に開校から7年勤めています。中学の頃ほとんど通学できなかった子、進学校から編入してくる生徒も居る、年令を超えてコミュニケーションがとれる高校です。
3月11日。手足をもがれた私達と違ってリアルに、すぐさま状況をネット等で画像を見ていた皆さんに、この場で今更あの時全てをもっていった津波の状況は書きません。
6日後に卒業式を控えていた女子生徒は、学校の講堂に安置されていた600体の遺体の中に居ました。私達職員は避難者の対応でしばらく気づかなかった。中学の頃、300日以上欠席していた彼女は、高校では欠席することなく友達も多くできたのに2年の女子生徒と共に逝ってしまった。他に、1年生の男子生徒、卒業生1名。合格して入学前に逝った1名。被災証明を受けた家庭は46%でした。
今、デジカメの時代ですね。全国どこの教員も行事で手軽に写真を撮ります。私もでした。でも、それを生徒に焼いて渡すことは出来ないのです。学校に残っているはずのデータを今、発掘しています。教員が撮ったはずの膨大な写真データから彼女らの姿を探しています。クラスでバーベキューしている姿、私の授業でイラレを使って作ったCGとレポート……。8月のお盆の頃にでも状況を見ながら、学校に残る彼女等の姿を届けたいと思っています。
造形大・美大・・は今何が出来るのか? 東松島高校に届くもの。大手文具メーカーからのノートや筆記用具。どこからかのマウンテンバイク10台、6段変速自動点灯のママチャリ15台、スポーツバック、運動着、東松島高校に制服は無いのに、なんちゃって制服。今、ことさら美大がアクションを起こす必要はないと思います。こんな大変な事態も時間と共に忘れる事で自己安心につなげホットする特技のある日本人。美大の貢献は、2年後、3年後に、震災を津波を経験してしまった子供達への物資でないサポートかも知れません。具体的な方法は分かりません・・。
この状況で、石巻管内の高校の展覧会を開催しました。5月初旬には、日和山という石巻を一望できる(良くTVで被災状況を各社が撮るところ)場所で桜の満開のもとでの野外展が恒例でしたが、話題にもならなかった。この山は、宮澤賢治が修学旅行で初めて太平洋を一望した所でもあります。桜の山の眼下は死の痕です。
53才の私は、造形を出て、教員になり、家庭を持ち、子供達も目標を見つけ動き、間もなく来る退職後の自分の表現生活などを思っていた私は、何て贅沢な生活をしてきたのかと思う。
千年ぶりの震災の光景を見たくて「観光」に来る全国の他県ナンバーを見るにつけ、あの頃の彼女等の姿とかぶり、ねー!ねー!考えてよと思う毎日が今も変わらない。
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